こんにちは。アーツネットウェーブの太郎良です。
正しさは守るものなのか、それとも使うものなのか。
この問いを、最近あらためて考えるようになりました。
正しさに従うことだけでなく、
正しさを「全体の幸せのために」どう使うかを、私たちは十分に考えているだろうか。
最近触れたある出来事をきっかけに、この問いがずっと頭から離れませんでした。
その出来事は、家庭内の問題が外部に伝わり、正しい手続きが取られた結果、
当事者だけでなく周囲にも影響が広がっていったものでした。
ルールの観点から見れば、対応は間違っていなかったのだと思います。
それでもどこかに違和感が残る。
正しさは守られたのに、全体としては誰も報われていないように見える。
この感覚をたどっていくと、一つの構造が見えてきます。
本来、ルールや正しさは、より良い判断をするための手段であるはずです。
しかしそれが、いつの間にか目的そのものになってしまうことがある。
「ルール通りにやったから問題ない」
その言葉で思考が止まった瞬間に、正しさは「考えるためのもの」から「考えなくて済む理由」へと変わってしまう。
そしてその先で、誰も判断していないのに物事が進み、誰も責任を負わないという状態が生まれる。
ここまでが、問題の本質だと感じています。
しかし、ここでさらに考えたいのは、なぜそのような状態になってしまうのか、という点です。
同じルールを使っていても、うまく機能する組織とそうでない組織があるのはなぜなのか。
その違いを決めているのは、おそらく
■ 正しさそのものではなく、それが置かれている関係性
なのだと思います。
信頼関係がある組織では、ルールは柔軟に解釈され、問題は対話の中で調整されていきます。
一方で信頼が弱い状態では、ルールは画一的に適用され、
個別の関係性が考慮されることなく扱われてしまうことがある。
つまり
■ 正しさの作用は、信頼によって大きく変わる
ここで初めて問いが次に進みます。
では、その信頼はどこから生まれるのか。
自然には生まれないものだとすれば、それは誰が担うのか。
そこで初めて、リーダーの問題に立ち返ることになります。
リーダーとは、正しさを押し付ける存在ではなく、
正しさが適切に機能する土壌をつくる存在なのだと思います。
そのために求められるのは、特別なスキルというよりも、ごく基本的な姿勢です。
どれだけ相手を尊重できているか。
そして、自分自身にどれだけ厳しい基準を課しているか。
相手を尊重することによって、人は安心して本音を出せるようになります。
その中で問題は小さなうちに共有され、対話の余地が残る。
一方で、自分に甘いリーダーの言う正しさは、誰からも信用されません。
自らが最も高い基準で行動しているときにだけ、その判断には重みが生まれる。
この二つが揃ったときに初めて、「正しさ」が信頼の上で機能するようになるのだと思います。
そう考えると、最初の問いにもう一度戻ることになります。
私たちは、正しさに従うことで満足していないだろうか。
その正しさを、何のために使っているのだろうか。
ルールやAIは、あくまで手段です。
それ自体が目的になった瞬間に、本来の意味は失われていく。
求められているのは、正しさを守る人ではなく、正しさを使う人なのではないでしょうか。
そしてその使い方とは、結局のところ、この問いに尽きるのだと思います。
■ この判断は、全体の幸せにつながっているだろうか。
その問いから目を逸らさず、考え続けること。
そして、その結果を引き受けること。
正しさは、守るだけのものではない。
それをどう使うかが、組織のあり方を決めるのだと思います。
それこそが、これからの組織に求められるリーダーの役割なのではないかと感じています。

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2026.06.01 Update

